教育、学び、そして学校 〜 注21

公開: 2024年2月20日

更新: 2024年2月21日

注21. 西南戦争

1877年に西郷隆盛の求心力と旧薩摩藩(鹿児島県)に集まった旧士族らによる、新政府に対する不満は頂点に達していました。その不満の原因は、一般市民を兵士として組織する徴兵制の導入と、それまでの武士の特権であった刀の携帯を禁止した廃刀令の施行などだったと言われています。また、廃藩置県によって、藩からの俸禄が打ち切られ、旧武士層が収入源を断ち切られたことも、旧武士層の不満を増大していました。1873年、新政府内の議論において、西郷は、韓国に侵略すべきとして、征韓論を唱え、それに反対した大久保利通と対立しました。征韓論を唱えた西郷らは政府を去り、故郷の鹿児島へ戻り、反政府運動を推進するようになりました。

1874年、佐賀県において、初の旧士族らによる反乱が勃発しました。この後、西日本の地域を中心に、旧士族による反乱が続き、国内情勢は不安定になりました。そのような状況下で、薩摩に帰った西郷らは、次世代の人材育成のため、私学校を設立し、旧士族の子弟を集め始めました。この私学校が、中央政府に対抗する勢力に拡大することを警戒した明治新政府の大久保利通や木戸孝允らは、薩摩に集積されていた国内兵器生産の拠点を、関西に移転する方針を決め、私学校派の監視に乗り出しました。当時、陸軍で使用する最も近代的な銃として、生産が可能であった銃は、旧薩摩藩の集成館でのみ生産可能であった、火薬を詰めた薬莢(やっきょう)、と弾丸が一体となった方式の後込め式の銃でした。薩摩は、その生産を一手に担っていました。

明治新政府は、警察組織を利用して、その薩摩の私学校における動きを内定し、薩摩の軍倉庫に備蓄されていた新型銃やその弾薬を密かに、関西方面へ持ち出す機会を狙っていました。このことを察知した私学校派は、新政府への反発を強め、1877年の2月に、政府軍と私学校の旧士族を中心とした反乱軍の戦いが始まりました。当初の戦いでは、反乱軍は、旧農民と旧士族で構成された陸軍との間の戦いに、互角の戦いを続けていましたが、反乱軍が熊本城に迫ると、戦いはこう着状態に陥りました。それは、政府軍に援軍の増援があり、熊本城の北での援軍と反乱軍の戦いが激化しました。明治新政府は、士族階級が多い、警察を再構成し、銃だけでなく、刀でも戦う抜刀隊(ばっとうたい)を組織して、旧士族を中心とした反乱軍勢力と戦わせました。

援軍の火力(大砲)と、抜刀隊の活躍によって、政府軍は、反乱軍によって包囲されていた熊本城を取り換えした後、徐々に鹿児島へ向かって、進軍しました。反乱軍は、宮崎県内の戦いで、政府軍に負け、鹿児島に追い詰められました。鹿児島の城内に追い込まれた西郷は、敗戦を認め、城内で政府軍の銃撃を受け、戦死しました。これによって、西南戦争は、終わりました。この後、昭和の初期に、日本軍の若手将校が中心となって、武装蜂起するようになるまで、国内においては、軍の組織的な反乱は、発生しませんでした。

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